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イベント掲示板[連載]粕谷俊二のオフタイム採用情報


日本、万歳
2009.12.30

今年も残りあとわずかか...ここ数年、天皇誕生日を迎えるとそう思う。ニュースを見ていたら、健康状態が心配されている高齢(76)の天皇陛下は、皇后と共に寒風に身を置き、式典に集まった民へ「皆様の幸福を祈り....」と、笑顔でいつまでも手を振っている姿が。殺伐とした報道が多い中、心温まるシーンであった。

年齢を重ねると、生き様が立ち振る舞いに現れるというが、お二人を見ていると本当にそう思う。常に国家の行く末を憂い、あるべき姿を考え、国民の為に尽す日々。そして、それを何よりの生きがいとしているその姿には、常々頭が下がる。日本の天皇陛下は、海外での評価も高いのだが、品格と志というものは、万国共通、敬意に値するということだろう。

話は変わるが、最近休日によく図書館へ行く。理由は、読みたい製品設計の参考書の多くが、とても高価だから。一時期は買い集めたが、本は棚から溢れ、机の上にも山...しかも、必要な計算式は、PCへ入力してしまうから、再度目を通す機会はほぼなしときているのだ。借りるに限る。

最近の図書館はとても便利だ。書籍以外にも、音楽CDに映画のDVDも置いてある。あれこれと見ていると、休日はあっという間に終わってしまう。昨日も資料整理の息抜きに、何の気なく映画DVDコーナーへふと目をやっていると、スティーブ マックイーン主演映画「栄光のルマン」がそこに。実は、この映画には、特別な思いがある。手に取り、ジャケットに目を走らせると、そこには「時速200マイルを超える世界一危険な24時間レース、スティーブは撮影に際し実際レース中ステアリングを握り、トップクラスのプロドライバーと走った」1971年の製作とあった。

俺が9歳のある日のこと、「面白そうな映画があるぞ、行くか?」そういって、親父が連れて行ってくれたのが、栄光のルマン。迫力のレースシーン、男として戦う姿勢は、子供心を貫いた。今も映画館の名前だって覚えているが、それほど印象深い一日だったといえる。

幼い頃から抱いていたレーサーへの憧憬。それは、この映画をきっかけに、夢から現実的な目標となったように思う。そして、何の伝手もなく、16歳で二輪のレースを始め、紆余曲折。念願のルマンへ初挑戦したのが1989年。映画を見てから18年もの歳月が流れていた。

当時のルマンは、映画そのままのサーキット。それは、市内中心部の公園に特設された車検場、サインエリアとの交信用に、手巻き電話が設置されたピット、そして20万人を越える観衆に沸き立つ13,6kmにも及ぶ公道を封鎖したレーシングコース。すべてに歴史を感じた。そして、子供の頃に見た映像とデジャブーのように重なる様が、何とも不思議で、胸がワクワクしたことが今も記憶に新しい。しかし、予選で大きなクラッシュが発生、ドライバーの死亡を聞いた時には、映画以上の過酷さを実感したのも事実。すべては、それまで体験したことのない別世界だった。

このレースでドライブしたマシンは、クラージュポルシェC20LM。マックイーンがドライブした、ポルシェ917が進化したグループCカーだ。最新の空力技術に、最大900馬力を発揮するターボエンジンを搭載した、耐久レース専用のモンスター。レース直前まで、60km制限だった公道を使用する、全長6kmに及ぶロングストレートでは、軽く360km/hをオーバーするのだから驚いた。

チームは、地元フランスでは名を馳せる名門。スタッフ、メカニック、ドライバーすべてフレンチ、俺一人外国人として参戦だった。当時、日本人のルマン参戦は、非常に珍しく、いやハッキリ言えば「極東の島国から来た黄色いサルがCカーに乗れるのか?此処は聖地ルマンだぜ」といった扱いを、走る前からチラホラ感じた。海外でレースすることには、慣れていたので「またか」と思ったが、ヨーロッパでは、これまでも、チーム内で偏見と戦ったことは何度かあった。それは、ヨーロッパで生活していると、偶に感じる違和感もしかり、人種差別の一端ということ。でもめげてはいられない。俺は、海外へ出て初めて、日本人ということを良くも、悪くも、意識させられたし、どう立ち振る舞うかということを真剣に考えた。

初めての走行では、タイムアップすればするほど、不思議に走る機会を失うこととなった。「最後のタイムアタックを粕谷で行かせろ」そう言った、エンジン担当のエンジニアと、別のドライバーが言い争うシーンも見た。だが、僕が予選最終セッションにステアリングを握ることはなかった。悔しいというより言い知れない脱力感を感じた。でも、そこで出した答は「勝負は結果がすべて。長丁場のレースでは力を思い知らせるチャンスは必ずある。マシンを守り一番速く走ればいいのだ、舐められてたまるか」だった。

俺の乗ったマシンは、前年に総合3位に入った実績があったこともあり、ライバルのマークは厳しかったが、序盤から熾烈な優勝争いに食い下がった。そんな中、スタートから6時間が過ぎると、トップグループはペースが速すぎて危険だと、一人のドライバーが言い出し、雨が降り始めて、視界が悪化した夜間走行を突然放棄してしまったのだ。おかげで俺は、夜明けまでの7時間を含めレース中、約12時間近くステアリングを握ることに。

レースは、順位を1−3位で入れ替えながら展開。ピットに緊張が途切れることはなかった。夢中で走った、でもレース中盤から、ルーティーン走行を終えピットに戻る自分を、迎えるスタッフの空気が少しずつ変わって行くことに気付いた。それまで、ろくすっぽ口も聞いてくれなかった監督が、マシンを降りたばかりの僕に、目線を合わせないまま水のペットボトルを渡し「グッドジョッブ」と小声で一言を背に受けて、電気もない小さなキャンピングカーへ戻る、そこはレース中の休憩場所。汗でぐしょ濡れのレーシングスーツを脱ぎ捨てながら、思わず苦笑した「東洋の島国から来たサルも少しは認められたのかな」と。

夜明け、朝靄に煙るコースはアスファルトのコンディションが分かりにくく、コースアウトするマシンが続出。「コースは滑りやすいぞ、頑張れよ」ヘルメットを被り準備していると、メカニックも声を掛けてくれるようになっていた。人種の溝とは根深い、それだけに信頼関係を築く難しさは、図りがたいものがある。だが、一つ方法があるとすれば、それは共に助け合い、真剣勝負を戦う中にあることは間違いない。

20時間が過ぎると、タフなポルシェエンジンに、不調の兆しが見え始める。栄光のルマンに夢を見て、遠くまで来たものの、日本人としての壁に苛立ったこともあったが、最後のドライブへ向かう自分に、異国人としての疎外感は消えていた。ここが勝負だと、メカニックに後押しされピットアウト。だが、エンジン音がおかしいし、ストレートスピードも伸びない、このまま2時間走れるのだろうか...そんな不安が胸を過ぎった。ライバルを追走するも、離されないのがやっと。10ラップ余り、敵に不調を悟られまいとコーナーで頑張ってはみたものの、自力でパスすることは無理と諦めかけた次の瞬間。何故か、ラインの狭いテルトルルージュで、周回遅れのマシンを強引にパスしようとしたライバルは、接触から呆気なくコースオフ。ダートで土煙に塗れるライバルを横目にトップへ返り咲いた。

「もしかしたら勝てるかもしれない」そんな気がした。

dumans

チェッカーまで残り30分を切って、給油の為最後のピットイン。この時には、2位以下をラップダウンにしていたので、タイムロスを覚悟のうえ、エンジンをチェック。僕は、チェッカーは当然エースが受けるのだろうと考えていたので、マシンを降りようと...だが、ジャンクロードはヘルメットを付けていない。そして、笑顔でマシンに歩み寄ると「エンジンは、絶対に最後まで大丈夫。チーム全員勝利を信じているよ、監督も最後はお前に任せるってさ」。彼は、かつてはフェラーリのワークスドライバーも勤めたフランスの英雄、素直に嬉しかったし。しかも、あれっ、俺を中傷し、逃げ出したチームオーナー推薦のドライバーも、サムアップしてこちらを見ているではないか「あー気分悪」と、独り言が思わず口に出た。

ペースダウンしても、周回を重ねる度にエンジン音は悪くなる一方。しかも、2位が同一周回に戻し急速に接近しつつあった。 

最後の一周は本当に長く感じた。今にも止まりそうなエンジン音と共に、カテゴリートップでチェッカーを受けた瞬間は、一生忘れることはないだろう。パークフェルメにマシンを止めると、スタッフ全員がそこにいた。個人的には、男同士で抱き合うのは苦手だが、ここフランスだ、おかまいなしにヘルメットを脱ぐ間もなく次々と抱擁の嵐に、キスする奴もいる。だから暑かったけど、ヘルメットは脱げなかった。面白かったのは、逃げ出したドライバーの奥さんが、大ハシャギする旦那を横目に呆れ顔で冷ややかな反応。おまけに俺には、笑顔でウインクときたもんだから笑いが止まらなかった。

表彰台には、津波のように観衆が押し寄せる。プレゼンターは、政府高官らしく、握手するジャンクロードも嬉しそうだ。フランス国歌が流れる、すると場内の雰囲気が一気に高揚、あちらこちらから奇声が上がり、興奮して表彰台によじ登ろうとするファンもいる。大盛り上がりの中、突然音楽が止まったが、観客は、気付かない。しばらくすると、どっから持ってきたの???と思うほど録音状態の悪い君が代が、流れ始めた。観客は、まるで聞いちゃいない。だが俺は一人目を瞑って聞いた。そんな時、ジャンクロードに言われてハッとした「これ日本の国歌だろ、聴いたのは初めてだよ、変わった曲だな」聞いてくれる奴が横にもいたのだ。また驚くことに、大観衆の中に日の丸を振る姿を発見!!その時、日本人として初めてルマンの表彰台に立ったことを実感、生まれて初めて日の丸を誇りに思ったものだ。

海外でスポーツをしていると、国の代表となれば威信を賭けて戦う、そんな愛国心に溢れたトップアスリートが多いことに気付く。オリンピックへ出る選手が「楽しんで来ます」とアホ面で意味不明なこと言うのは、日本人くらいだろう。参加することに意義があるとするオリンピック精神とは、力一杯戦う選手に与えられる栄誉なのであって、出るだけでよいというものじゃない。愛国心は国家の礎となるもの、占領国に押し付けられ戦後教育の中で、日本人は一番大切なものを失ってしまったのかもしれない。

国際社会における外交においても、日本の孤立が取り立たされているが、その理由は、ルマンの経験に近いものがあるのかもしれない。人種、国家、宗教それらの利害も絡む。となれば、ファーストネームを呼び合えば意気投合とはならない。ODAで金をばら撒き、恩を売っても砂漠に水なのだ。

日本は、他国と比べ政治家、国のリーダーを志す子供が極端に少ないという。理由は判りきっている。ようは、憧れの対象がいないということ。そりゃ、私服を肥やすために働き、存在意義のない政治家ばかりの日本。子供の目に格好良く見えるわけがない。おまけに、国際社会で弱腰と判を押され、軽視されているのだから、将来はどうなることか。

世界を見ると、信念を持って国民のために体を張る。戦う姿勢を示す国家元首が少なくない。彼らの多くは、賢く屈強なリーダーで、国民の信頼を集め、実に分かりやすい。だから子供の夢にも成り得る。国際舞台での駆け引きは、本当にタフでなければできないもの。そこで手強いと一目置かれ、敵に回すより仲間に...と思わせる強さが求められるのだ。日本では、徒党を組んで、選挙のときだけペコペコしていれば政治家になれる。だが、外交はそうはいかない。本性はすぐに見透かされ、舐められるのがおち。国家を導くタフで賢い男(今は女の時代かな)、子供の目標となリ得るリーダーが、今の日本には本当に必要だと思う。

先の総選挙で政権交代を御旗に、選挙対策の陣頭指揮に立ったリーダーは、戦後最大の赤字予算に揺れる国民をよそに、党所属議員100名以上、取り巻きを入れると、総勢600人の中国団体旅行の音頭をとり、権威を示してご満悦という。今中国へ?何で?国会議員として国内でやるべき仕事あるだろ?目的は、中国主席とのツーシヨット写真と揶揄された御一行。愕然としたのは、温家宝主席の前に全員一列に並んでニタニタ、ヘラヘラ浮かれている国会議員がニュースに...そのシーンが、国際映像(世界中が見ている)から流れるのを見て、祖国日本の未来を憂いたのは自分だけだろうか。さらに、呆れたのは、この見返りとして、翌週に来日した副主席を、陛下に接待させたことだ。権力を傘に、健康状態が心配される高齢の陛下を個人的に利用したとされている。本当に信じ難い愚行だが、来る参議院選挙に彼が推挙したリストを見て俺はさらに憂鬱に...

日本に、子供の夢となるようなリーダーが誕生するのはいつの日のことか。