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鎮魂
2013.08.06

 昭和二十年八月六日広島、その三日後には長崎へ、米国軍は民間人が多く暮らす小都市を狙い、原子爆弾を続けざまに投下。結果として、約50万人という途方もない数の人が傷付き、その半数に迫る尊い命を奪った。しかも、その大半が女性と子供という不条理極まりない爆撃。非戦闘員を攻撃目標にはしないという、暗黙の国際ルールを無視した情け容赦ない凄惨な殺戮は、人類史上最も非人道的な作戦として歴史に刻まれている。

 原爆の後遺症は、半世紀以上が過ぎた今も、被爆者とその家族の心身を苦しめている。もし、東京へ落とされていたとしたら、祖先は絶え、俺は、この世に生を受けることはなかったかもしれない…そう考えると、とても他人事とは思えない。

 敗戦後の日本は、奇跡的な復興を果たし、一時は世界第二位の経済大国へまで昇華する。だが、忘れてはいけない。当たり前に享受している、この平穏な生活は、尊い犠牲による礎あってのことなのだ。 俺はこの時期になると、自然と自分の先祖が眠る靖国神社へと足が向う。今年もいつものように、慰霊に対し、心より鎮魂の祈りを捧げたいと思う、一人の日本人として。

 米国のアーリントンには、建国以来、国の為に尽くし、そして散っていった英霊が眠る国立墓地がある。合衆国民であれば誰もが知ることだが、人種差別の極みとして、許されざる奴隷制度を守るために戦った南軍兵士の墓石も多数ある。現在の認識からすれば人身売買は、許されざる過ちであったが、死んでまで過ちを償わせようとするような、料簡の狭い、無慈悲な愚蒙を聞いたことはない。靖国は、アーリントンに等しく、何処かの国でケチをつける輩がいるようだが、俺は爪の先ほども気にならない。むしろ腹が立つのは、興味本位に騒ぎ立てる浅薄なメディアだ。終戦記念日、国のために散った慰霊に敬意を表するニュースならともかく、話題は、外国からの非難、おろおろする政治家ばかり。本来なら報道される順番は逆であろう。

 知ってのとおり、原爆を落とされた国は、後にも先にも日本だけだ。第二次世界大戦中に開発が始まった原子爆弾には、ウラン型と後発のプルトニウム型があるが、前者は広島に、そしてより強力な後者を長崎へ、いずれも人口密集地を狙っての攻撃。終戦直後の動乱期には、戦争の早期終結を求めての作戦として、連合軍によって正当化されたが、事実は違う。時に日本軍は、壊滅的な打撃を受け軍隊としての戦闘機能を消失、すでに勝敗は決しており、原爆を幕引きに落とす必要はなかったのだ。
 
 原爆投下の真の理由は、あまりにも強大な破壊力を持つ原爆。米国内の施設における爆破実験では知りえない、実戦における破壊力の確認と、人体への放射能の影響を調べるため、日本は実験台にされたに過ぎない。

 戦争の基本は、陣取り合戦である。第二次世界大戦も、当時アジアの広いエリアを植民地としていた、欧米の列強との主権争いが基にあり、日本も一歩間違えれば植民地化されていたのだ。さらに、これに人種、経済的利害、宗教の違いが、戦争をより泥沼へと落とし込む。それでも日本人にとっては、民間人への原爆攻撃など有り得ない蛮行と思えるが、だからといって、世界中の人が同じ価値観にはないということを、唯一の被爆国民として肝に銘じ、絶対に忘れてはならない。時に敵国は、目的を果たすためには手段を選ばぬこともあるのだ。

 米国とソ連が冷戦へと突入すると、核兵器は防衛の要となり、抑止力の切り札として開発研究が急進。そして、政情不安の燻るアジア、中東へと拡散していった。現在では、9カ国に約1万7千発(90%は米露が保有)もの、膨大な核兵器の存在が確認されており、その一部は日本の脅威となっている。

 しかし、核兵器の研究開発がここまで進んだのは、裏を返せば、そのエネルギーが如何に強力かつ高効率であるかの証であり、人類の生活近代化に伴い、膨脹を続けてきた電力消費の安定的な供給源として、世界40カ国以上で原子力発電所が、次々に建設されてきたことからしても、リスクはあるものの、利用価値が高いことは間違いない。

 ただ皮肉なことは、唯一の被爆国でありながら、日本が米仏に続く、世界第三位の原発保有国となっていること。その背景には、輸送に大きな労力が必要とされる化石燃料の供給不足が、敗戦の一因となったことから、経済成長に欠かせない電力の供給に多様化を求めた方法論とも言える。だが、その実は、日本の未来を切り開くには、あまりにも無知無学な政治家と無責任な官僚によって推進された。理由は、彼らの利己的な利益誘導にあり、立地条件、安全性、そして、長期的な展望など考えられるはずもなかろう。

 それでも、三菱、東芝、日立といった日本を代表する企業が、世界レベルで最先端技術を争うまでに成長しているという、技術向上の成果もあった。海外では、電源を完全に消失しても自動停止し、冷却を維持できる3.5世代と呼ばれる最新の原発建設を受注しており、今後進めなければならない、老朽化した国内原発の廃炉作業にも、彼らの技術が役立つだろうし、日本を支える産業に成り得る可能性もある。

 津波で崩壊した福島原発の製造元は、米国GM社だ。地震津波のない米国に生まれ育ったエンジニアの基本設計による古い第一世代のシステムは、米国内でも不安視されているものだ。当然ながら複合的な耐震性、水没対策などが織り込まれるはずもなく、正常運転の要となる冷却用電源すら高所に設置されてはいなかった。また、近年これを指摘した専門家の意見も、いまや無能の代名詞となっている天下り東電役員にとっては、耳障りな雑音でしかなく、改善されることないまま3.11を迎えてしまった。

 エネルギー政策は、単純ではない。資源の増減、生産技術、新たな発見、そして環境とのバランスなど、時代に合わせて、微調整が必要となる。将来的な計画性においては、国家の存亡が掛かっているといっても過言ではないだろう。原発の存在意義が、愚かな政治家の広報に利用されてはならない。

 政権交代後、鍍金が剥がれ低空飛行を続けていた民主党政権は、有事においても全く頼りにならないことが、震災、尖閣の対応で露見、これで終った。命を賭して立ち向かうとまでは期待しないが、狼狽する政府の姿は、同じ日本人としては、目を覆いたくなるほどの醜態であった。しかし、選んだのは国民、我々にも大きな責任がある。

 教育の欠如した民主主義は無意味である

 民主主義は、様々な政治手法の中にあって、消去法的に選択される最善の政治形態ではあるが、権力を委ねられた政治家は、利害に溺れ易いだけに、常に正義を重んじる、聡明かつ想像力豊かな、質の高い人材によって構成されなければならない。さらに、賢明な人間を選び、政治を堕落させないために、常に間違いを正せる民衆を育てる教養の質の高さは、これよりも重要となる。

 俺が考える日本の政治があるべき姿、理想形だ。これは、独立宣言の起草者でもある、第三代米国大統領トーマス ジェファーソンの言葉を、自分なりに解釈してまとめてみたが、残念ながら日本の民主主義政治は、これに遠く及ばない。いや、そればかりか、国家の危険すら感じる。

 今回の参議院選挙にしても、理性も想像力もなく、知的科学根拠の欠片もなく、ただ短絡的に原発反対を叫ぶだけの男に、60万余りの票が集り。男として、レスラーとしては、俺も敬意を覚えるアントニオ猪木候補に、維新最大の比例票が入った。しかし、これによって維新は、政策に実行力が評価されていないことが明白となり、知名度でしか議席を取れない政党ということがはっきりした。なかでも、一番驚かされたのは、居酒屋の親父を利害で推薦した自民党。だが、実は問題は始まったばかりである。世界一の財政赤字に悶える我国にあって、一人年間一億円の歳出となる参議院議員の任期は六年。彼らに、この代償に見合う成果を国家へ献上できるわけがないのだから。

 どうやら日本の民主主義は、危機的な状況にあるようだ。

 島国に住んでいると分かりにくいが、世界は日々変化している。それは、好きな海へ出ても感じることだが、急激に進む人口増加と、経済成長を優先するあまりに破壊し続けた地球は、汚染、温暖化などの影響による異変に歯止めが掛からなくなっていることを肌で感じる。それは、自然界に身を委ね生きる、弱い生物ほど大きな被害を受け、彼らの多くが、日々個体数を減らし続け、すでに絶滅させてしまった動物も少なくない。しかし、問題は、多くの人間が、地球が限界に近付きつつあることに気付きながら、より利己的に贅を追い求め、自己防衛に走っていることだ。このまま、環境破壊が進めば、近い将来に起こるであろう、この限界の超越によって、世界は一変するかもしれない。そうなれば、人種、宗教、国家間の関係には大きな歪を齎すこととなり、民族の生き残りを賭けた戦争へと発展する可能性は誰も否定できない。

 思い起こそうではないか、落とされざるはずの原爆は広島、そして長崎に落とされたのだ。戦争反対といって念仏のように平和、平和と唱えても、他国のリーダーは仏の親鸞聖人ではない、紛争となれば、力なき平和主義はあっという間に吹っ飛ばされる、これはだけは絶対に間違いない。

 そして、有事となっても日米安全保障条約に過大の期待をしてはいけない。仮に日本の領土を侵略されたとしても、敵国が米国最大の貿易相手国だったとしたら、国内経済へ大きな重石と成り得る奪還作戦を、共に戦ってくれる保証はどこにもない。というのも、軍隊を動かすには、米国の議会承認が必要となるからだ。現在の国際情勢を考慮するに、侵略を受けた場所にもよるが、無人島だったとしたら、票が割れることは想像に容易い。条約とは、所詮紙切れ一枚の約束でしかなく、歴史を振り返れば分かろうというもの。むしろ、その程度のものと思っていなければ、国政の未来は見えてはこない。

 日本の報道の多くは、おとなしく配給の列を並ぶ日本人の忍耐は海外の評価が高い、であるとか、流される家屋の映像、原発のアップばかり…感動か恐怖、いかに好奇心を煽り、視聴率を稼ぐかに軸足を置いて震災をクローズアップしていたが、この時、世界からは異なる視点で注視され、日本は少なからず信用を失ったかもしれない。俺がそれを知ったのは、数ヵ月後、海外でたまたま目にした新聞記事であったが、「機能しない政府、メディア。情報なき非難民は放射能を追いかけ、汚染された収容所に逃げ込んだ」「無能は首相によるメルトダウン」、「放射能漏れ情報を掴みながら隠蔽、卑劣にも自分の家族だけを非難させた大臣」、「役人と電力会社が最優先、原発事故は犯罪」、「火事場泥棒の実態」、「復興予算の横流し、被災地の足元を見て商売繁盛」、そして、愕然としたのは、「瓦礫の受け入れに反対する、薄情で自己中心的な日本人の正体を見る」…残念ながら、芳しくないものばかりであったが、日本にいるより的確な情報が多々見られたことだ。しかし、メディアの責任とは、本来こうあるべきで、正確な情報を多く収集し、好奇心は二の次に、社会へ貢献すべく、如何に逸早く報道するかにあるのだと思う。

 平和過ぎるのか、日本人に緊張感は希薄であり、民度も下がりつつあるように感じる。俺は趣味程度ながら空手を嗜むが、大分前、いい年の幹部の言動に呆れ、ある団体を離れたことがある。彼は、歩道で禁止されている、歩きタバコを注意していたボランティアパトロールの老人を「この暇人が、馬鹿野郎」こう嘲笑ったのだ。今の日本、武道家にあって、このレベルなのである。

 最近、たまに地元の道場で汗を流しているが、あの時のことを思い出す度に、横で稽古をしている子供達にとって、大人の立ち振る舞い、教育の重要性を、ふと考えたりすることが…というのも、海外へ出ると、妙な東洋人を見かける機会が増えたことは事実として、それよりも気になるのは、アジアに高い教養を纏う、タフなビジネスマンが増えていることだ。先日、飛行機の中で出合ったマレーシア人青年との会話は、非常に印象的なものだったが、英知に溢れ、ジョークも少々、とくに将来設計の緻密さは、30歳とは思えない逞しさだった。幼少時代に学ぶことは、人格を左右するだけに、日本も人生のスタートラインとなる、情操教育をより重視したいものである。

 「井の中の蛙大海を知らず」こうしている今も、国際社会に打って出る貪欲な隣国の民度は上がり、将来起こりうる事態を見据え備えを強化している。そろそろ、俺達は目を覚まさなければいけない。