最近、休日によく図書館へ行く機会がふえた。理由は、読みたい製品設計の参考書の多くが、とても高価だから。一時期は買い集めたが、本は棚から溢れ、机の上にも山...しかも、必要な計算式は、PCへ入力してしまうから、再度目を通すことはほぼなし、借りるに限る。
最近の図書館はとても便利だ。書籍以外にも、音楽CDに映画のDVDも置いてある。あれこれと見ていると、休日はあっという間に終わってしまう。昨日も資料整理の息抜きに、何の気なく映画DVDコーナーへふと目をやっていると、スティーブ マックイーン主演映画「栄光のルマン」がそこに。実は、この映画には、特別な思いがある。手に取り、ジャケットに目を走らせると、そこには「時速200マイルを超える世界一危険な24時間レース、スティーブは撮影に際し実際レース中ステアリングを握り、トップクラスのプロドライバーと走った」1971年の製作とあった。
俺が9歳のある日のこと、「面白そうな映画があるぞ、行くか?」そういって、親父が連れて行ってくれたのが、栄光のルマン。迫力のレースシーン、男として戦う姿勢は、子供心を貫いた。今も映画館の名前だって覚えているが、それほど印象深い一日だったといえる。
幼い頃から抱いていたレーサーへの憧憬。それは、この映画をきっかけに、夢から現実的な目標となったように思う。そして、何の伝手もなく、16歳で二輪のレースを始め、紆余曲折。念願のルマンへ初挑戦したのが1989年。映画を見てから18年もの歳月が流れていた。
当時のルマンは、映画そのままのサーキット。それは、市内中心部の公園に特設された車検場、サインエリアとの交信用に、手巻き電話が設置されたピット、そして20万人を越える観衆に沸き立つ13,6kmにも及ぶ公道を封鎖したレーシングコース。すべてに歴史を感じた。そして、子供の頃に見た映像とデジャブーのように重なる様が、何とも不思議で、胸がワクワクしたことが今も記憶に新しい。しかし、予選で大きなクラッシュが発生、ドライバーの死亡を聞いた時には、映画以上の過酷さを実感したのも事実。すべては、それまで体験したことのない別世界だった。
このレースでドライブしたマシンは、クラージュポルシェC20LM。マックイーンがドライブした、ポルシェ917が進化したグループCカーだ。最新の空力技術に、最大900馬力を発揮するターボエンジンを搭載した、耐久レース専用のモンスター。レース直前まで、60km制限だった公道を使用する、全長6kmに及ぶロングストレートでは、軽く360km/hをオーバーするのだから驚いた。
チームは、地元フランスでは名を馳せる名門。スタッフ、メカニック、ドライバーすべてフレンチ、俺一人外国人として参戦だった。当時、日本人のルマン参戦は、非常に珍しく、いやハッキリ言えば「極東の島国から来た黄色いサルがCカーに乗れるのか?此処は聖地ルマンだぜ」といった扱いを、走る前からチラホラ感じた。海外でレースすることには、慣れていたので「またか」と思ったが、ヨーロッパでは、これまでも、チーム内で偏見と戦ったことは何度かあった。それは、ヨーロッパで生活していると、偶に感じる違和感もしかり、人種差別の一端ということ。でもめげてはいられない。俺は、海外へ出て初めて、日本人ということを良くも、悪くも、意識させられたし、どう立ち振る舞うかということを真剣に考えた。
初めての走行では、タイムアップすればするほど、不思議に走る機会を失うこととなった。「最後のタイムアタックを粕谷で行かせろ」そう言った、エンジン担当のエンジニアと、別のドライバーが言い争うシーンも見た。だが、僕が予選最終セッションにステアリングを握ることはなかった。悔しいというより言い知れない脱力感を感じた。でも、そこで出した答は「勝負は結果がすべて。長丁場のレースでは力を思い知らせるチャンスは必ずある。マシンを守り一番速く走ればいいのだ、舐められてたまるか」だった。
俺の乗ったマシンは、前年に総合3位に入った実績があったこともあり、ライバルのマークは厳しかったが、序盤から熾烈な優勝争いに食い下がった。そんな中、スタートから6時間が過ぎると、トップグループはペースが速すぎて危険だと、一人のドライバーが言い出し、雨が降り始めて、視界が悪化した夜間走行を突然放棄してしまったのだ。おかげで俺は、夜明けまでの7時間を含めレース中、約12時間近くステアリングを握ることに。
レースは、順位を1-3位で入れ替えながら展開。ピットに緊張が途切れることはなかった。夢中で走った、でもレース中盤から、ルーティーン走行を終えピットに戻る自分を、迎えるスタッフの空気が少しずつ変わって行くことに気付いた。それまで、ろくすっぽ口も聞いてくれなかった監督が、マシンを降りたばかりの僕に、目線を合わせないまま水のペットボトルを渡し「グッドジョッブ」と小声で一言を背に受けて、電気もない小さなキャンピングカーへ戻る、そこはレース中の休憩場所。汗でぐしょ濡れのレーシングスーツを脱ぎ捨てながら、思わず苦笑した「東洋の島国から来たサルも少しは認められたのかな」と。
夜明け、朝靄に煙るコースはアスファルトのコンディションが分かりにくく、コースアウトするマシンが続出。「コースは滑りやすいぞ、頑張れよ」ヘルメットを被り準備していると、メカニックも声を掛けてくれるようになっていた。人種の溝とは根深い、それだけに信頼関係を築く難しさは、図りがたいものがある。だが、一つ方法があるとすれば、それは共に助け合い、真剣勝負を戦う中にあることは間違いない。
20時間が過ぎると、タフなポルシェエンジンに、不調の兆しが見え始める。栄光のルマンに夢を見て、遠くまで来たものの、日本人としての壁に苛立ったこともあったが、最後のドライブへ向かう自分に、異国人としての疎外感は消えていた。ここが勝負だと、メカニックに後押しされピットアウト。だが、エンジン音がおかしいし、ストレートスピードも伸びない、このまま2時間走れるのだろうか...そんな不安が胸を過ぎった。ライバルを追走するも、離されないのがやっと。10ラップ余り、敵に不調を悟られまいとコーナーで頑張ってはみたものの、自力でパスすることは無理と諦めかけた次の瞬間。何故か、ラインの狭いテルトルルージュで、周回遅れのマシンを強引にパスしようとしたライバルは、接触から呆気なくコースオフ。ダートで土煙に塗れるライバルを横目にトップへ返り咲いた。
「もしかしたら勝てるかもしれない」そんな気がした。
チェッカーまで残り30分を切って、給油の為最後のピットイン。この時には、2位以下をラップダウンにしていたので、タイムロスを覚悟のうえ、エンジンをチェック。僕は、チェッカーは当然エースが受けるのだろうと考えていたので、マシンを降りようと...だが、ジャンクロードはヘルメットを付けていない。そして、笑顔でマシンに歩み寄ると「エンジンは、絶対に最後まで大丈夫。チーム全員勝利を信じているよ、監督も最後はお前に任せるってさ」。彼は、かつてはフェラーリのワークスドライバーも勤めたフランスの英雄、素直に嬉しかったし。しかも、あれっ、俺を中傷し、逃げ出したチームオーナー推薦のドライバーも、サムアップしてこちらを見ているではないか「あー気分悪」と、独り言が思わず口に出た。
ペースダウンしても、周回を重ねる度にエンジン音は悪くなる一方。しかも、2位が同一周回に戻し急速に接近しつつあった。
最後の一周は本当に長く感じた。今にも止まりそうなエンジン音と共に、カテゴリートップでチェッカーを受けた瞬間は、一生忘れることはないだろう。パークフェルメにマシンを止めると、スタッフ全員がそこにいた。個人的には、男同士で抱き合うのは苦手だが、ここフランスだ、おかまいなしにヘルメットを脱ぐ間もなく次々と抱擁の嵐に、キスする奴もいる。だから暑かったけど、ヘルメットは脱げなかった。面白かったのは、逃げ出したドライバーの奥さんが、大ハシャギする旦那を横目に呆れ顔で冷ややかな反応。おまけに俺には、笑顔でウインクときたもんだから笑いが止まらなかった。
表彰台には、津波のように観衆が押し寄せる。プレゼンターは、政府高官らしく、握手するジャンクロードも嬉しそうだ。フランス国歌が流れる、すると場内の雰囲気が一気に高揚、あちらこちらから奇声が上がり、興奮して表彰台によじ登ろうとするファンもいる。大盛り上がりの中、突然音楽が止まったが、観客は、気付かない。しばらくすると、どっから持ってきたの???と思うほど録音状態の悪い君が代が、流れ始めた。観客は、まるで聞いちゃいない。だが俺は一人目を瞑って聞いた。そんな時、ジャンクロードに言われてハッとした「これ日本の国歌だろ、聴いたのは初めてだよ、変わった曲だな」聞いてくれる奴が横にもいたのだ。また驚くことに、大観衆の中に日の丸を振る姿を発見!!その時、日本人として初めてルマンの表彰台に立ったことを実感、生まれて初めて日の丸を誇りに思ったものだ。
海外でスポーツをしていると、国の代表となれば威信を賭けて戦う、そんな愛国心に溢れたトップアスリートが多いことに気付く。オリンピックへ出る選手が「楽しんで来ます」とアホ面で意味不明なこと言うのは、日本人くらいだろう。参加することに意義があるとするオリンピック精神とは、力一杯戦う選手に与えられる栄誉なのであって、出るだけでよいというものじゃない。愛国心は国家の礎となるもの、占領国に押し付けられ戦後教育の中で、日本人は一番大切なものを失ってしまったのかもしれない。
国際社会における外交においても、日本の不器用さが取り立たされているが、その理由は、ルマンの経験に近いものがあるのかもしれない。人種、国家、宗教の違いは、平和な日本人の考えが遠く及ばないことも多いようい思う。ただ、ファーストネームを呼び合えば意気投合とはならない。ましてや、資金を出すだけのODAで恩を売っても、砂漠に水を撒くようなものだろう。
日本は、他国と比べ政治家、国のリーダーを志す子供が極端に少ないという。理由は、正義なき権力は子供の憧れの対象と成りえないからだ。だが、世界を見ると、信念を持って国民のために体を張る。戦う姿勢を示す国家元首が少なくない。彼らの多くは、賢く屈強なリーダーで、国民の信頼を集め、実に分かりやすい。
日本に、子供の夢となるようなリーダーが誕生するのはいつの日のことか。