海が好きだ。休日、天候さえよければ釣りに出掛けることが一番の気分転換。ただ、釣りといっても限りなく漁業状態に近いので、とある小説にある蟹工船ほどではないものの、獲物を追い求め荒ぶる外洋まで走ることも多々あり、時には予想外の時化に遭遇、危険な思いをすることも少なくない。
見渡す限りの水平線、暗闇と大波に翻弄されながら必死に帰港を目指すことになるわけだが、そんな時、大自然の前では人間が、いや自分が如何にちっぽけな存在であるかを、改めて思い知らされることになる。
そんな経験もあってか、先月先輩に頼まれキャプテンとしてカジキ釣りの大会に参加。しかし、2回ヒットさせたものの、ランディングは叶わず。持ち込んだ自慢のルアーは喰いちぎられてしまった。それでも、カジキを探し当てヒットさせることは出来たので、勝つことは出来なかったが、助っ人としての職責は真っ当できたかと思う。
優勝したのは、ポイントが倍以上となるキャッチアンドリリースを狙ったチーム。だが、釣り本来の姿といえる獲物を釣り上げたチームもあり、サイズでは大きく上回っていたが、妙なポイント制の前に敗退していた。
この勝敗を決するポイント制には、大いなる疑問を感じた。その理由は、小さくても30kgくらいはあるカジキ、大きなものは500kgを越えるだけに、そのパワーは半端なく強い。それだけに、ルアーにヒットしてから、ボートに引き寄せるまでに、2時間を越えるファイトとなることも珍しくはない。ボートに寄せてからも、最後まで諦めることなく抵抗する猛獣に、タグと呼ばれる札を背びれに打ち付けられるまで弱らせなくてはならないのだ。時間の経過と共に心身ともに衰弱していくカジキ、特に無理な運動を強いられた心臓には、大きなストレスが掛かるため、リリースしたところで、生存できる可能性は1%もないのでは…と言われているからだ。
自然界に存在しない釣具に掛かったカジキは、驚き跳ね回り、恐怖から逃れるために潜る。そして、強大なパワーボートに乗る人間と生死を賭けて戦うこととなるのだ。必死にルアーから逃れようと本能のまま暴れ狂い、最後の一瞬まで決して諦めない勇敢な姿を見ると、弱り果ててタグを打たれたカジキの生存率が、1%に満たないことは確かに肯ける。実際、自分もタグが打たれたカジキを釣ったことは一度もない。リリースといっても、お祭りの夜店の金魚すくいのように、椀から放なたれ何事も無かったかのように泳ぐ小魚とはわけが違う。人間の我欲が多くの魚を傷つけ、命を脅かしているのだ。
アーネスト・ヘミングウエイという作家がいる。僕は彼の作品の中では「老人と海」が気に入っている。主人公は、朴訥に猟師人生を歩む老人だ。その生活は、豊かさとは程遠いものの、男らしく寡黙で高潔な立ち振る舞いに、周囲から慕われる存在。しかし、体力は衰え、感が鈍り、不漁が続く彼は徐々に過去の存在となっていく。それでも本人は、大物を射止めることを決して諦めようとはしない。その日も、経済的に船を維持することすら難しい状況に直面しながら「最後かもしれない」そんな思いを胸に秘め、何時ものように小船で漁へ出る。だが、その終焉は、捜し求めていた巨大カジキとの戦いと共に突然訪れることになる。
長い戦いの末、気が付くと命懸けで捕らえた獲物と共に漂流、運命的な戦いが彼を翻弄する。やっとの思いで港への針路を見つけ出し、死の予感を覚えながら帰港を始める。だが、神は彼にさらなる過酷な試練を与える。なんと曳航中のカジキを鮫に襲われてしまうのだ。何よりも失いがたい獲物が徐々に食われていく姿を前に、最後の力を振り絞って抵抗するも、敵は手強すぎた…その結末には、人間の存在の儚さを思い知らされることになるのだが、それでも苦難に目を背けず、勇気を持って志を貫き通せるのであれば、男としての誇りだけは失うことはないと、そう思わせてくれる。
人生の大半をフロリダで暮らし、海と自然を愛した男、それがヘミングウエイだ。今では博物館となっているキーウエストの元自宅には、昔のままの生活感が残されており、愛してやまなかったという猫達も、自由気ままに今も庭で戯れている。
彼もカジキとの戦いに真摯に向き合った男の一人だ。貧しい漁師とは違い、大きな船を所有していたであろうから、外洋航海でのリスクは、それほど大きなものではなかったろう。それでも大物との戦いとなれば、全身全霊を傾けたことは想像に容易い。
写真は数年前に米国の東海岸をボストンからマイアミまで2500km横断航海をした際のもの。今もいい思い出だ。フロリダでは、カジキのステーキは、レストランの定番メニュー、実に美味しかった。ヘミングウエイは、戦い獲ったカジキに対しては敬意を払い、必ず持ち帰ったという。タフな大型魚とのファイトは、長時間に及ぶことが多く、その末に、ボートに寄せられるカジキが、致命傷を負っていることを戦士として肌で感じていたのだろう。そこでタグを打ってリリースするなど、命を捨てることに等しく、そんな愚行をヘミングウエイは、決してしなかったという。
生きる物すべてに食が必要である。だから獲る、これは自然の摂理だ。だが、ゲームとして、食べもしないものを悪戯に狩り、恐怖を与え、傷つけるべきではない。大会からの帰路、俺は出場したことを少なからず後悔した。ランディングは一日一本のみ、結果は大きさで勝負。そして、釣った魚は必ず食べる。競技として釣りをするのであっても、そうあってほしいものだ。
人の考えは十人十色。海の恵みに感謝し、食するに最小限の魚を獲る人。そして、人間が破壊を続ける生態系を保護する上でタグ&リリースすべきという人もいる。(食べるには小さすぎる魚のリリースは意味がある。だが、苦しむ魚を引っ張りまわし、科学的根拠無く泳ぐ負担となるタグを打つ必然性は無く、一秒でも早く海へ戻すことが重要)。最悪なのは、命を奪うことに罪の意識は微塵もなく、残酷にも大型魚が暴れ狂う姿に興奮し、ファイティングの醍醐味を求め、価値のない軽薄な記録を自慢をする人もいる。
海へ出る。漁では、魚を苦しめないよう常に短時間勝負を意識し、ランディングさせたら一撃必殺。そして感謝と共にすべて食す、それはこの世に生を受けた万物に通じる掟と思うからだ。