新年を迎え願うこと

新年を迎え願うこと。それは、地球上に暮らす命ある物すべての平安。なかでもここ数年気掛かりなことは、増加の一途を辿る人間に安住の地を追われ、気候変動に翻弄される過酷な自然に生きるの野生動物の明日である。

1900年、人口は16億人。それが、ここ100年余りで爆発的に増加し、2014年には、72億人を越えたとされている。人類だけが享受する文明が齎した結果だが、その源を担うエネルギーは、化石燃料の活用によって成り立っていおり、副産物として排出される様々な科学物質はもとより、二酸化炭素が、環境破壊の元凶と解明され、削減が叫ばれてからも、その排出量は加速的に増え続けている。

近年、人類の繁栄に伴う負の反動として、温暖化による海面水位の上昇、気候変動による大きな自然災害が急増すると、ようやく二酸化炭素の削減を唱え続けてきた科学者の研究結果が国際社会を動かし、様々な取り組みが始まっている。その一方で、利益優先に削減に背を向ける者もいる。

昨年末、フランスで開催された二酸化炭素の排出削減に向けた国際会議で、リーダーシップをとる欧州先進国から出された危機的な問題提起に対し、身を切ってまでは協調できないとする国家がいくつかあり、残念ながら環境変化の被害に苦しむ国と、無縁な国との意見も隔たりは大きく、平均気温の上昇値の目標と対策に必要となる莫大な予算は示されたものの、具体的な戦略、法的な拘束力を持つ条約の締結は先送りされ、依然先行きは不透明のままである。

文明の庇護の下で膨れ上がった人類は、衣食住そして富を求め、陸では大気の浄化に必要となる森林を破壊し、そこに宿る動物の生活を根底から奪い去り、海では、水質汚染の元凶となっているばかりか、これまで人類が数多くの生物を絶滅へと追いやってきたように、商業価値の高い魚類は、乱獲によって急激に個体数が減少している。実際、太平洋近海へ釣りに出ている僕の目から見ても、ここ数年で海は大きく変わり、とくに回遊する大型魚の姿は消えつつある。この問題は、単純ではなく、食物連鎖の頂点に立つ生物の個体数の減少が与える生態系への影響は、計り知れないほど大きい。

自然の摂理に反して、豊かな生活を求め続ける人類は、地球の自浄作用の限界付近まで環境を破壊していることを知りつつ、これまでブレーキを踏みきれないでいた。だが、その反動は近い将来に食糧危機などといった深刻な事態を人類に突きつけるだろう。しかし、このまま手を拱いたままではいけない。まずは、身近なところでもかまわない、環境の変化を考察し、復元するという意識が最も重要だと俺は思う。アフリカや南米など、不法な開発が進むエリアでは、自然保護運動が叫ばれ地道な努力が始まっているという。

東京には50年以上暮らしているが、もう随分前から野生動物を見ることはなくなった。野鳥、昆虫の数も随分減ったし、野良猫ですら見かけることが少なくなり、人とペットしか生き物が見当たらない街は、どことなく殺伐とした風景に変わりつつある。だが、自然と共生する大都会もある。例えばニューヨークだが、街には木々が溢れ、栗鼠がいたり、鳩はもちろん、野鳥が沢山いて、公園はもちろん、至る所に緑が溢れている。経済の中心街でありながらも、自然と人間社会が調和していると感じることに癒される側面を見ることができる豊かな街である。旅をしていて常々感じるのは、人の心にゆとりのある国の暮らしはどこも同じで、庭に訪れる小鳥の囀りを楽しみ、綺麗に花を植えているから、虫がいても気にもしない。野良猫が遊びに来れば、餌をやり、好き勝手に名前をつけて呼び、頭を撫で回わす。そこには、自然との調和が常にあるものだ。かつての東京がそうであったように。

豊かな生活を手にした人間社会ではあるが、不自然なストレスを感じることも少なくない。そのためか、動物としての本能、感覚が鈍っており、自然のメカニズムが狂い始めていても、危機感を抱けないのかもしれない。環境破壊にブレーキを掛ける原動力は、原点に立ち返ることだ。自然を復活させ、野生を思い起こす。全ての生物との共存共栄を進めることだと思う。自然との触れ合いに笑みが出ないはずがない。人も動物なのである。

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